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PHOTGALLRY

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 「浦添ようどれ」は琉球王国初期の王の墓で、極楽陵ともいいます。咸淳年間(1265~1274年)に英祖王が築いたといわれ、その後、14世紀後半~15世紀前半に石垣がめぐらされました。さらに1620年には、浦添出身の尚寧王の墓陵を造るために改修したようです。

 石で覆った墓陵は全体的に城郭の一部分を構成しているようで北側からの眺めはようどれの城壁と浦添城の城壁が天に聳えるように積み重なってより巨大な城壁を感じさせてくれます。かって古琉球の時代には現代のように酸性雨で城壁が黒ずんでしまうこともなかったのでしょうから珊瑚の化石の琉球石灰岩は天に聳えて白亜の摩天楼として光り輝き琉球世を世界に誇示していたのでしょうか。 ようどれの頂から墓庭へは、まず急坂の石畳道を下り、かつてはトンネル状の通路であった暗しん御門(くらしんうじょう)を通って二番庭(なー)に出ます。そして中御門(なーかうじょう)と呼ばれるアーチ門をくぐりぬけて、墓室のある広い一番庭(なー)にいたります。 墓室は岩盤に大きな横穴を二カ所掘り、全面を石積みで塞いだつくりです。西室(向かって右側)が英祖王、東室(左側)が尚寧王の墓といわれています。墓室の中には、中国産の石で作られた骨を納めるための石厨子があり、仏像などが巧みに彫刻されています。 去る沖縄戦で、浦添ようどれの石積みは大きく破壊されましたが、戦後琉球政府によって墓室が修復され、平成12年~17年には墓庭の石積みが復元されました。 ようどれ(ゆーどぅり)は夕凪を意味する琉球語で、転じて古代琉球語の墓を意味すると言われています。また、「浦添ようどれ」は極楽山ともいうので極楽のオモロ名(聖なる名称)とも考えられています。

浦添えようどれのある浦添城跡では現在、かって存在した浦添城の石垣城壁を復元工事中です。下記掲載の写真は2010年5月撮影のものです。
 復元工事は一挙に完工することができないほど困難を極めていますが工事の関係者が尽力してくれているので遠からず完成することでしょう。

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